10の徳分になる方法(仏教の叡智が残るタイ王国での10通りの徳積みについて)、徳積みの方法について。

 

和訳では、 十福業事(じゅうふくごうじ、巴: dasapuññakiriyavatthu)十善業事と呼ばれるものですが、ここでは、タイのジュラマニ師からの説明に注釈を付け加えて記載します。 

【特に3番は、難しい概念を端的に説明して頂いていると思います。】

 

(備考)徳積十箇条 とすると憶えやすいと思います。

 

1:ターナマイ: 自分が持っているものを分かち与える。捧げる。 (物施)

 

      下記の3種類がある。

    A: サンミー ターン: 自分が使うより、もっと良い物を差し出す。

    B: サルーイ ターン: 自分が使うと同じ位のものを差し出す。

    C: ター ターン: 自分が使うより下のものを差し出す。

 

2: シーン ラマイ

        五戒を始め、大切なダルマ(執着、煩悩を持たない、妬みや嫉妬心を持たない等を含む)を行う事で徳分になる。

        

        備考:

         きれいなJIT: 妬み、嫉妬が無い。 

         軽いJIT:   執着を持たない。

 

  五戒は下記の通り:

   ◯生き物を殺さない。不殺生戒(ふせっしょうかい, 梵: prāṇātipātāt prativirataḥ             

  ◯他人のものを盗まない。不偸盗戒(ふちゅうとうかい, 梵: adattādānāt prativirataḥ 

  ◯不適切な性行為を行わない。不邪婬戒(ふじゃいんかい, 梵: kāma-mithyācārāt prativirataḥ 

  ◯嘘をつかない。不妄語戒(ふもうごかい, 梵: mṛṣāvādāt prativirataḥ  -

  ◯酒などを飲まない。不飲酒戒(ふおんじゅかい, 梵: surāmaireya-madyapramāda-sthānāt prativirataḥ  

 

 これらの五戒は、相手に対して嫌な思いをさせない、傷つけない(=悪いカルマを積まない。

またお酒を飲む事で自分の躰を傷つけない飲酒=ゆっくりと時間を掛けた自殺行為)と考えると何故 お釈迦様が五戒を説かれたが理解しやすいと思われます。 

 

 全ての生き物ものを尊重するという概念が重要な鍵になります。 相手を傷つける、自分を傷つける行為が、悪いカルマになる、という事です。 それを防ぐためのモノが、この五戒です。 (ちなみに、タイのお坊様は227の戒律があります。 それに比べたら、在家の五戒は少ないと言えます。)

        

3: パーワ ナァマイ

   ダルマに沿った修行(マントラを唱える、瞑想をする等)をする事

 

        深く学ぶ者にとっては、パンヤー(全てを事象、因果関係など深くを知る、真実を知り得る力、本質を見極める力)が、最終段階の一つの到達地点だが、 まず最初はお釈迦様のマントラを唱える練習をして行く。この状態では、悪い事は何も含まれない事になるので、十分に徳分になる。 

         

   【備考】

    深く行う事が出来ると、他を観なくなる。 他の事や他人の事を考えなくなる。これはお釈迦様の大切な教えで、問題があっても他人を観ないで、自分だけを省みるだけで良いと教えられました。大切で深い真理でありますが、実行するのは難しい教えでもあります。 もし仮に問題があっても他人の行動など分析する事すらも止めて、自分自身の悪い所だけを観てダルマに沿って修正して行く。 行動に移すどころか、悪い考えがよぎるだけでも良くないカルマを生じさせる。 実は悪い考えを持つだけでもカルマになるそうです。 そして相手の悪いところを考えるだけでも、悪いカルマになっていくそうです。 

 

 他の人の事に気を取られず、マントラや瞑想に集中していれば、そこには悪いモノの考え方すら無い訳です。

 しっかりとしたお釈迦様の説かれた真理を解っている、そして教える立場にある先生の指導の下で瞑想をすると、瞑想する者自体が深い瞑想が出来る。 瞑想の時には、勿論、五戒を破ることも無いという事です。 

 

 ※集中してマントラを唱える事、そして安全で確実な瞑想を実行する事で、JITが静かになる、 キレイになる。 マントラや瞑想しながらでも、あの人はこうだ、この人はこうだ等と考えていては、本来の教えの実践とは言えない。 【瞑想とは一つの事に集中する事でもある。】

        

      

 4: アパチャーヤ ナァマイ

          他のいかなる存在を尊重する。 (老若男女に関係無く)誰にでも謙虚である事。

           

 5: ワイヤー ワジャマイ

            家族はもちろん、他を助ける。 (体施)

            

6: パティ ターナマイ

        徳分の機会があれば、自分だけでするので無く、他の人にも伝えてあげる。

        

        備考: 自分が徳積みした際には、 恩のある自分の家族だけでなく、神やテワダーや地のスピリッツ等に徳分を差し上げる事をすれば、 自動的に更なる徳分として自分の所に戻ってくる。 

        

 7: パァ(T) アヌモー タナー スワン ブン (アヌモー ターミー)

          他の人が(徳積を含め良いことをしている事を知ったら、その姿を見て喜んであげられると徳分になる。

           

           もし、他の人がお布施を出して徳分を積んだとしたら、その事に嫉妬をしない事。 自分にはお金が無くて出す立場に無くても、喜んであげられる事で、自分自身も自動的に徳分が得られる事が出来る。 (正反対に、喜ぶのでは無く、嫉む事をすれば悪いカルマになる。だからこそ、真理を学ぶ必要がある。)

 

 

8:  ガーン ファン ターン

 ダルマ【法、自分のすべき義務】を良く聞くことから始まる徳分。

 

深く学んで行く過程の先にあるモノとしては、サティ(集中力、洞察力、観察力)やパンヤー(本質を見極める力)の獲得。 もちろん最終到達はニッパンである。

 

9: タンマ テー サマーナイ 

        ダルマ(法や各自の義務すべき事、真理)を教える (法施)

        

10: ティ トチュ ガン(m)

        ダルマを守る:  ダルマ(法)を曲げない。人が正しい事を言っているのに意地を張って従えないという状態を改善する事。 

        

        例えば、飲酒はいけない、と五戒にあるにも関わらず、自分達の勝手な理由をつけて、少しの飲酒なら良い、お酒は良薬だ、と間違った教えをあたかも正しいかのように言ってしまう事。 

 お釈迦様は飲酒とは、長い期間をかけて自殺する行為であると説かれています。 お釈迦様が、どの道を行けば正しく前に進む事が出来るかを説かれました。 にも関わらず、そのお釈迦様が説かれたダルマを人間の勝手な都合で、大切なダルマをねじ曲げてしまう事は慎むべきです。 仏法をねじ曲げる事は私たちのこれからの子孫の未来を奪うことでもあります。

 

 

【備考】

 あなたの命を頂きます、殺された牛さんや豚さん有難うといって感謝して肉魚を食べるなら良い、という話を最近聞くようになりました。 ダルマをねじ曲げた教えが出回っている日本となりつつあります。 良く考えれば解る事ではありますが、命に無益な殺生も有益な殺生も無いのです。 殺す事は殺す事でしかない。 その事実のみが在るわけです。 殺された側からみれば、その肉体でのやり直しは、もう出来ない訳です。  本来の不殺生戒の教え(命を尊ぶ)教えを曲げない事。 

 

その他の例として、私はお釈迦様の生まれ変わりである、というような話。 これをタイやラオスあたりの人に話をすると、ねじ曲げられた話と直ぐにわかるため、とても落胆されます。 

 なぜなら前回のお釈迦様は、2560年前(西暦2017年時点)に、お生まれて来られた際にに、これが最後の人生であると宣言され、悟りを開かれニッパン(涅槃)へ行かれました。実際にお亡くなりになられた際には、極楽浄土(天女などがいるテワダーの世界や、神々の世界)ではなく、それらを全て超えた場所であるニッパンの世界に行かれた訳です。 なので、2560年前にネパールのルンビニで王子として生誕されたゴータマ シッダルータとしてのお釈迦様のその魂は再び人間に生まれてくるはずはありません。 魂の生まれ変わりの輪、輪廻転生から既にもう離れて、ニッパンの世界と行かれた訳です。 お釈迦様に関して理解が深いアジアの国々では、この事を当然、誰もが普通の当たり前の話として知っています。

 

 もちろん、 次なるお釈迦様は、これより2.000年から2.5000年位先に、人間の躰を持って来られますが、前回のお釈迦様と同じ魂では無い訳です。前のお釈迦様とは全く別の魂の持ち主なのです。(前のお釈迦様はご存命中に、既に次なる、新しいお釈迦様が来る事ををお告げになられています。) 次のお釈迦様という役割をされるという事で、別の魂の尊き存在の方が、人間の躰を持ちお生まれになるのです。

 残念ながら、日本にはダルマをねじ曲げて、あたかも本当のダルマであるというような話が沢山ありますが、本来のダルマを理解し、ダルマをねじ曲げない事。 これが大切な事です。

 

 ちなみに、次のお釈迦様は、ダルマ【法や自分のすべき義務】は教えないとの事です。 

なぜなら、前回のお釈迦様が既にダルマを教えられているからだそうです。 

 

私たちは、この前回のお釈迦が教えられたダルマが未来永劫 どこまでもあるような錯覚をしています。長い宇宙の歴史の中で、今のこの、ほんの僅かな期間のみ ダルマが存在しているそうです。 それを考えると、とても有り難い時代であると認識すべきだとされます。 

 

 今は未だお釈迦様の教えへと登る山道があります。 これから先、物質世界に重きを置く経済の発展と共に、このお釈迦様が指し示して下さった登山道にも、タイのような仏教国でさえも、もう既に、その登山道にはペンペン草が生えてきている状態です。(この話は、タイで行われた、天の扉開きで教えて頂いた話です。)

 

 少し先には、どこが登山道だったかも解らない様な状態に、いずれかは、登る道が見えなくなってしまう、という現実に向かいつつあるわけです。 今 この時代はダルマが有り難くも存在するという事を認識する必要があります。

 

(この話は、宇宙の壮大の時間の流れと、たがだか、人間が長生きする時に使う尺度としての100年程度の単位での比較ですので、それを前提にお話しています。)そして人間の生まれ変わりというのは、何か特別な理由が無い限り数年後という訳では無いそうです。 次に生まれ変わる際には、数百年後、千年後に生まれ変わる、ごくごく普通にあるとの事です。 徳分を作る事が出来るるのが人間であり、最終的な到達地点であるニッパンに行く事が出来るのも、テワダーや神でなく人間だけなのです。 それが人間という、ある意味特異な存在ですが、いわゆる、次に人間として生まれ変わった時に、ダルマ(前回のお釈迦様が説かれた法、真実とは何か、義務とは何かを指し示した法)が存在する世の中であるいう保証は、何一つ無いという事なのです。

 

 しかし、このような有り難い時代に生まれて来ているにも関わらず、経済の発展に伴う物質的な恩恵だけに注目しているだけの世界にドップリと浸かっているのが、今の私たち殆どの人々の生活であるといっても、過言ではないでしょう。 

 

最後にJITの説明については、 武運濃神社のブログに、幾つか書かれているので、そこを参照されると良いでしょう。

 

備考: 仏歴2560年=西暦2017年