この頁は、放生についての質疑応答についてです。

質問1:どのような生き物を放生するのが良いのでしょうか?

 

答え:

 まず大きく分けて、生き物を2つに大別させると良いと思います。

 

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➀ 今まさに、殺されそうな生き物。 (食べられてしまう魚や貝、エビなど)

➁ 売られている生き物だが、 すぐに殺される目的で売られていない。(ペットや観賞用の魚)

 

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放生には、➀の、今まさに、殺されそうな生き物が、適しています。

 

また、 ➀だからといって、 店頭には在庫がないので、 予約して取り置きしてもらうのも良くありません。

 

なぜなら、 店の人が、わざわざ、その取り寄せ依頼で、 仕入れをする事になれば、 この話しは本末転倒になります。 (なぜなら、 お店の人は市場へ御願いします。 市場の人は漁師さんへや養殖場へ、 漁師さんや養殖の人は結果、あなたの注文を受けて不要な魚をさらに穫るという流れになります。自分の本来の目的は、魚を逃がしてやるという事がです。 しかし、この目的から外れてしまうだけでなく、結果として、自分の意図ではないハズなのに、誰か他の人に対して魚を穫らせるという悪い因果を作る可能性が大きくなります。 これが本末転倒の意味です。)

 

よって、店に行ってみると、そこに、たまたま食べられるために売られている魚や貝があるという、状況が最善です。 

 

日本に至る所に、 養殖場や釣り堀があります。 そこで, ある分の範囲内で買い求めるのも良いでしょう。

 

馴染みでは無い店の人に理由を言うと、 怪訝な顔をされる事もあるので、 ただ、生きた魚を買い求めたいとだけ、お伝えして購入するのが良いかもしれません。

 

もう一つ大切な事は、 放流した場所で生きていける環境であるのか? という事の確認、御願い致します。

 

 

例えば放生実践会のある、海がない岐阜県では、鯉を旅館などでは郷土料理として、よく食べられます。 時期によってですと、マスや鮎もそうです。

 

放生して生き延びる可能性が多い生き物を選ぶと良いでしょう。

(近くの川で、釣りする人も少ない場所を選び、生きていく可能性が高い場所を考えながら、放生します。)

 

【ご参考】

放生実践自体は、見返りを考えず、命を積極的に助けるという事が大きな動機です。

 

 それに付随する考え方が、アジアの仏教諸国では、もう一つ大きな流れがあります。

【それは、生臭ものを一定期間避ける、菜食週間というものです。】 

 

 多くのアジア諸国では、普段は肉や魚を食べる人でも、その仏様に関係するお祭りの1週間程度を、誰もが菜食ができる様に、 その週間はお酒や肉魚を出来る限り止めましょうという週間があります。

 

 レストランや屋台でも、積極的に菜食料理メニューが多くなる時期となります。 この考え方は、積極的に命を救う迄にに至る訳ではないかも知れませんが、 少なくとも命を奪うという事はありません。 

 

 もちろん物質的豊かな西洋へ右に習えの前、はるか昔の日本では、精進、精進落としという言葉があるように、彼岸の時期などを含めて、命を奪わない食事を期間限定で行う風習もあったようです。 葬儀の際も、実は喪に服し、そしてその期間が過ぎた後に、肉魚、酒などを排し、精進落としの日迄は生臭いモノを避けていた習慣もあったのも昔の日本でした。

 

 個人的には物質面を重要視した西洋文化を是とする今の日本であっても、是非 霊性豊かな生活(スピリチュアリティ)を基にしたアジアの素晴らしい習慣が廃れる事無く、アジアの一員としての文化を見習える事が出来れば良いと思っています。

 

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 因みにこんなお話をすると、では、野菜も生きているではないか? という質問が出るかも知れません。

 

その通り、野菜にも細胞があり生物学的には生きています。 しかし、ここでの話の中心は魂です。

 

魂が宿る、宿らない、という観点で区別しています。

◯動物・魚・カニ、エビ、貝など→魂が宿る。

◯野菜・果物・ナッツ→魂は宿らない。 

 

(そうなると科学的に証明は未だ出来ていない魂の存在というものが、論点の中心になります。 このHPは放生実践をお伝えする頁ですので、詳細は割愛しますが、) 野菜には魂が宿っていない。 しかしながら魚などには魂が宿っている、という見方から成り立ちます。

 

これは、仏教やヒンディなどの根底にある共通認識です。いわゆる 不殺生(インド天竺ならばアヒムサー、ahimsa)です。 創造レベルの神が与えた魂という存在に対して着目する、という事からすべてが始まります。 もちろんお釈迦様が説かれた、カルマ(悪い業)や徳分(良い業)という言葉もすべて物質至上主義では説明できる言葉でもありません。

 

 最近の日本では、食事の時に、いただきます、というのは、 あなたのその命を頂きます、という言葉から来ているという話を巷で良く耳にします。 海外の方にそのような説明をしたとしたら、今の日本では、そのような残酷な言葉を使うのですか? と、非常にビックリされる事となるでしょう。  【実際には、いただきます、という言葉は、お命頂戴ではなく、 全てに対しての感謝を述べている意味ではないか?と個人的には思います。】

 

 本当に、その語源が正しいのかも吟味する事も大切ではないかと思います。誰かの勝手都合により、あなたの(命を)頂きます、だから感謝して食べなさいという家庭教育が、暗黙のうちに行われていたとしたらば、命の尊厳はそこにあるのでしょうか? 

 

 例えばの話ですが、奪われる立場の母(牛)からしてみて、どう写る言葉なのでしょうか?  もし仮に牛の立場になった時に、そんな勝手な言葉だけで済まされるモノなのでしょうか? (奪う側は往々にして、自分自身が奪われる側に立ってみないと、その事が解らないといいます。)

 

 命の大切さ、尊さが言われる昨今、この普段使い慣れている言葉の意味を再検討する事も、とても大切な事なのかもしれません。

 

 毎日の生活で菜食は難しいというのが殆ど方の意見でしょう。 日常の毎日では難しいのであるならば、せめて菜食週間を慣行しましょう。 それが霊性が高い国である国であるといっても過言ではありません。 放生が今なお一般的である昔ながらの良いアジア諸国の知恵、習慣を是非見習いたいものであると思います。 (戦前の日本でも、精進落としという言葉が微かに残っている通り、菜食をして先祖供養のため精進する期間があったものです。現代では、通夜から葬儀の数時間で精進落としをする、数時間しか行う事をしない精進落としとなっているのが現状です。 )

 

 少々 話しが脱線してしまいましたが、本題のまとめ、それは下記の通りです。

 

 

 魂の宿っている生き物を助け、その生を奪うこと無く(魂の成長を妨げること無く)、魂の宿ったその生を全うする事を助ける。 他の命を助ける事で徳分を積む。 

 

これが放生実践の目的であります。

 


質問2:放生のお金、どの位の金額を出したらよいですか?

時々、耳にするご質問です。 特に、右にならえの日本人には時々出て来る、話です。

ここで考えて頂きたいのは、

 

どのくらいの金額を出して、いま正に殺されかけそうな命を助けたいかという事を他の人に聞く必要があるのでしょうか?

 

 

毎月 定期的に 放生する人もいれば、一年に一回、もしくは一生に一度の人もいるかもしれません。 

それぞれ経済状況も違います。  例えば、小学生の子供がお年玉やお小遣いから出す金額と、年収1千万以上ある人では、違ってきて当たりまえと思われます。

 

また日本人は、魚に対しての命を、他の動物の命よりも軽んじる傾向があります。

輪廻転生の観点から観れば、 魂は魂です。

 前回のお釈迦様ですらも、お釈迦様になられる幾たびの生まれ変わりの輪廻転生の中で魚であった時期もあられます。

 

魚の魂も、牛の魂も、鶏の魂も、人間の魂も、すべて輪廻転生を繰り返している魂である事には変わりないという事はお釈迦様の説かれたダルマ(真理、法、すべき事)と照らし合わせれば明らかな事です。

 

 今まで、沢山の悪いカルマを積んで来てしまい、大きな病気になってしまっている。 せめての償いもあり、今回はこのような機会も 入院もしていて、放生する機会も多くない。 だから、沢山の命を救いたい、とその方が思われているのなら数万円でも少ないかもしれません。 

 

また、死んだ父が無類の釣り好きで多くの殺生を重ねて来た。 だから、せめて残された子供の自分が、死んだ父に代わり徳分を積み、その徳分を父に送りたいと思っているかも知れません。 また、ある人は 病弱だったから。 逆に今、健康に恵まれているのだからこそ、放生をしたい。

別の例として、身内のなかで良くない最期を迎えた者がおり、せめて、あっちの世界にいるその者に対して徳分を送りたい。 ある人は、ただ単純に魚を助けると気持ちが良いからとなるかも知れません。

動機や理由は、人それぞれです。

 

出す金額はご自分で決められる事。 これも人生の勉強の一つです。

 

当会でお世話するの立場から敢えてお話します。 世話する立場からは、参加される方、委託される方が、殺されかけている命を助ける事が出来て良かったという事だけを見ています。 誰がどの位のお金を出したかと言う点に注目はしていません。 

 

 それよりも一人でも、放生する人が集まり、多くの命を助ける事が出来て良かった。 徳分が積めて良かったといういう点に着目しています。 あくまでも、人は人、ウチはウチ。 いくら出すかも人生の勉強の内です。  表面での額が少ない、額が多いという(深い部分を読み取る訳でもなく、表面だけでみて、) 判断する事は本末転倒となる事でしょう。 

 

 金銭という誰にとっても ”大切なモノを差し出す尊い行為” である事は間違いありません。 金額はそれぞれの立場で千差万別なのです。 

 ご自分にとって、この金額であるならば大切な額となるという金額があります。それを命を救うために差し出したい。 と思う事が大切なのです。

 (日本人によくある話なのですが、隣りの人と相談して、私いくら出そうと思うけれど、あなたは、いくら出しますか?  お互いに金額は同じにしておいた方が良いでしょう、という考えを元に行動すると、本来の御布施や喜捨の意味からかけ離れたものになります。)

 

 見返りを求めず、純粋に差し出す。 この点が大切です。 もし仮に一度に沢山の額を出す方がいたとして、沢山の徳分が積めて良かったね、と周りの人間も素直にその事に対して喜ぶ事。 ただ、それだけの事です。(決して嫉妬、ねたみ、蔑みの対象にしない事。) これもまた大切な点だと思われます。 額が少ない、多いという、上辺だけを見るのでは無く、純粋に殺されそうな命を助けたい、この動機が大切である事を、どうか忘れないで頂きたいと思います。 他人の目を気にすることは全くないのです。

 

補足説明

ご質問: 放生したいけれど遠方のため、なかなか来れません。 

数回分をマトメて委託をお願い出来ますか?

 

 

お答え: 残念ながら受付不可です。(2020年現在 委託は受け付けていません。)

 

 お寺や神社に寄進される場合、ではこの金額を数回分に分けて寄進しますという形で寄進はしません。 その機会の度に御布施する事が望ましいです。 

 

委託される場合も全く同じ事が言えます。

 

 商売のために数ヶ月分をまとめて委託を受けるなら、そのような方法もあり得るかもしれませんが、利益や利便性などを考えていない当会では、受付はしておりません。

 

 純粋に徳分を作るという観点から、その都度 機会がある毎に徳分を積む行為が大切である、とお考え下さい。 

 

   参加・または、委託の連絡先フォームへ

 

質問3: 家族が病気なので、放生したい。 どうするのが一番良いですか?

 

 一番良い方法は、家族全員揃って、ご自分達の手で放生する事です。

 

しかし、往々にして、病気のご家族(父母、配偶者、子供など)は、自分の病気と徳分の関係がある事を認識出来ません。 徳分や放生の説明を1度して理解が得られない場合は、相手を説得しようとはせず、ご自分だけ放生をしましょう!

 

 その場合は、ご自分が放生をします。

その際に徳分が発生しますので、その徳分をご家族に分けてあげて下さい。

 

放生の回数を重ねていく中で、 徳分がご家族(父母、配偶者、子供など)に行き、状態も良くなり、放生の大切さを実感できるようになる、という話も良く耳にします。

 

放生や徳分の話をしてご家族が理解を示さない場合は、自分のお金で【喜びの中で】自分が徳分を作り、その徳分をご家族に分け与える事が最善です。 この徳分や悪いカルマの話は、相手を長い時間かけて説得して理解してもらえるような類いの話ではありません。

 

もし、ご家族が徳積みするためにお金を嫌がって出す場合は、もし強制し相手に出させたとしたならば、反って悪いカルマになる可能性も出て来てしまいます。 

 

◯良い放生: 命を助ける放生が出来て良かった、徳積みが出来て良かった。 良い放生です!

 

X 良くない放生: 【嬉しい、喜びの気持ちが無い。 人から言われたから、仕方ないからと、嫌な気持ちでする放生ならば、その人はお金は出さない方が良いです。】

 


質問4: 家族に徳分をわけ与えて状態が良くなったら、せっかくの本人のカルマ解消が出来なくなってしまうのではないでしょうか?

 答えから言えば、 本人のカルマ解消よりも徳分の方が、もっと大切です。

 

同じ質問をインドなどの聖者などに、例えば自分の問題や家族の問題を相談すると、大抵は 悪いカルマが動いているから仕方ない、困っているならブレッシング(神からの恩恵が届くように)して下さる場合もあります。 また、場合によっては、其れは悪いカルマが動いているから仕方ない、という一言だけで終わるかも知れません。 残念ながらインドでは徳積みに関する叡智は殆どありません。 

 

本来のお釈迦様の教えから紐解けば、自分の大切な人には恩もあり縁もあるのだから、徳分を差し上げなさいと助言される事でしょう。 

 

徳分とは、【徳を分け与える】という意味だからこそ、徳分です。 自分のためでもありますが、同時に他の存在に対して分け与えるという行為です。 自分で作るモノですが、他者へ分け与えていく事で初めて徳分となっていく訳です。

 

 その動機が純粋で喜びに満ちあふれた中での行為であれば、100%の徳分となって行きます。 これをしたら徳分になるだろう計算したり、嫌々すれば、100獲得できる徳分も10%しか獲得できないかもしれません。 相手に無理矢理に強制させれば、嫌な思いをし、お互いが悪いカルマを積む事になり本末転倒になるかも知れません。

 

 高貴な存在である聖霊達や神々に自分の徳分を差しあげる行為も尊いです。 それと同時に、御縁があって今世にお世話になっている恩師や(ペットを含む)親しい家族に徳分を分け与える行為は、とても純粋で良い行為です。 (神々からすれば、この事自体が本当に尊い行為として映ります。)

 

徳分とは今世だけのモノではありません。 

過去生からの貯金であり、(極論を言えば)人間という立場だけが、今世積み立てる事が出来るモノです。 

そして今世による徳積みの行いが、自動的に来世に持ち越して行くものでもあるからです。

 

ペットを含め、病気の家族は往々にして自発的に徳分を積むことが出来ません。 だからこそ、自分が作った徳分を分け与え、今世や来世の貯金にしてあげる、これが本来の【慈悲の心】です。

 

 今世 仮にカルマが多すぎて自分達が思い描いているような都合の良い結果にならないとしても、徳分は必ず来世に繋がるものです。 このように今世だけでなく、長い期間で物事を捉え、日々の生活が出来るようになる為にも、徳分というモノは必要です。 

 

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ここから、少し脱線しますが、生まれ変わりについて核心的な話をします。

 

【現代人、特に戦後のアメリカ式教育を受けて来てしまった日本人には、今の生きている、この人生だけの短い期間だけを、ついつい着目しがちです。 

 

 しかし、お釈迦様の説かれたダルマでは、普通の魂は、輪廻転生の中で、繰り返し動物や魚の人生を含め、今は人間という立場で生まれていると説かれます。

 

 そして今世の行い(悪いカルマを積まない & 良いカルマ(徳分)を積む努力、すなわち徳分とカルマの法則)で、 次の生まれ変わりが、どこになるか決められます。

 

  例えば、動物の世界(畜生道)、人間の世界、天女等の住む天界の世界、 悪い事をしすぎて動物にすら生まれ変わりが許されない餓鬼等の世界。

 欲望と煩悩が多すぎて死後 悪魔に取り込まれて悪魔と一体化してしまう世界。 など多岐に別れます。 

 

普通の人間の立場では、死んだ後に、次のどのようにして生まれてくるかというシナリオを決めるだけの立場にない事は、お釈迦様の説かれたダルマを学んだ者なんらば、すぐに理解の出来るでしょう。 私達の魂は決して自由な立場ではありません。 全てが因果応報の法則の基で、成り立っています。 

 

  今は人間として生まれて来ていますが、死んだ後は、どうなっていくかは、この今世の行い(徳分とカルマの法則)によります。 今が人間だから次も自動的に生まれ変われる、というのは人間側の都合の良い勝手な解釈に過ぎません。 

 

(少し脱線しましたが、当たり前のように次も人間に生まれて来る訳では無い。 そればかりか、徳分を作る事もせず、悪いカルマばかり積んでいれば、次に動物に生まれ変われるだけでも御の字である、この点をお伝えしたかった訳です。)

 

 これより、本題の徳分の話に戻りますが

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通常 徳分が増えて行くと、どうなって行くかをお話します。

 

結果として 病気の状態が良くなった、(名医と出会う御縁を頂いた、素晴らしい薬草が手に入った、回復する力が増した)となる訳です。  そして 繰り返し徳を積んでいくから、魂が深い部分でその重要性を理解をし、最終的には、お釈迦様のダルマ(どれだけ徳積みが大切で悪いカルマを積む事の愚かさ)を深い部分で大切とし、ダルマを学び実践したい、という流れが、苦からの脱却の最初の糸口となっていく訳です。

 

今世でのカルマ解消も大切です。 しかし、それ以上に魂の成長が大切です。

【徳分を積んで行くとどうなるか? それは徳分が如何に大切であるか!という事を深い部分で確信していきます。

 逆に徳分が少ない場合は、徳分の大切さを認識する事すら出来ないでしょう。】

 

縁のある人が、その人に徳分を分け与え事で、徳分が増えていきます。

そうすると、その人自身も徳分の大切さを理解していくようになっていきます。 

(もちろん、カルマが多すぎて、徳分の大切さを認識せずに死んで行く場合もあるかもしれませんが、 それも全て本人自身のカルマと徳分の法則によるモノです。 それでも縁のある肉親などの近い存在に与える事が出来るのは最終的には徳分しかありません。)

 

 相手が理解できないとしても、親しい人が、その御縁の深い人、大抵は親や子供や配偶者に、亡くなった祖父母などに徳分を与えるしかないのです。 言い換えれば、徳分の大切さを知らない人には、他の身近な人間が徳分を与えて、いつかは、その大切さを認識出来ように、お手伝いをする。

 

 いずれは、その人自身も、徳分を積むという行為をしていくように下地を作るのが、相手の一番の手助けとなる、と言うことです。

 

徳分が魂にとって、どれほど大切かと認識する事が出来たなら、その魂は大きな収穫を得た【魂が成長して来ている】という事です。縁のある人に対して、いわゆる魂の成長の手伝いを陰ながらしている訳です。

 

魂の苦しみを解放していく一番の処方箋は目に見えない徳分を積んでいく事、ここから全てが始まる。 こう言っても過言ではありません。

 

病気や怪我などをきっかけに放生による徳分わけをする。 

本当の意味での大切な事を知り、実践する始まりでもあります。

 

徳分分けを通して、特に自分より学びが少ない人に対しては、魂の成長を願って行く事。 相手の魂に対して良い事を働きかけてあげる事。 そして究極はお釈迦様のダルマを学び実践する事。その第一歩の1つの方法が放生です。

 

   参加の連絡先フォームへ

 

 

 

質問5: 最初から放生委託を希望しています。 過去に放生に参加された方限定との事。 なぜでしょうか?   (2020年より、 委託は受け付けていません。お金だけ出せばいい、と考える人が増えて来たので取りやめました。この質疑応答は放生会の本質がどこにあるか? を考えるため残してあります。)

 

100回のメールの質問より、たった1度の放生参加で多くの事を得られます!

 

なぜなら、委託はただ単にお金を出すだけです。 

しかし、ご自分で放生する場合は、大切な時間、労力、移動にかかるお金、そして何よりもご自分自身の手を使い実際に魚の命を助けます。よって、自動的により多くの徳分が発生します。

 

 現代人は昔の人間より、セコセコと時間に追われて生活しています。 その中で、自分の貴重な時を、放生会に費やす事は、尊い行為とも言えるでしょう。

 

先ずは参加する事をお薦めします。 

 

参加され、それ以降で、ご自分の近くに放生する場所が無く、遠距離で来る事がなかなか出来ない。自分で積極的に、いつも放生し、数回に一度の割合で委託であるならば、という場合は致し方ない事と考えます。

 

 皆さんが集まる放生の日には、 質問などにお答えする時間も作るように心がけています。

 

 放生実践会を続けていると、徳分の大切さを経験していきます。 

放生の徳分により、多くの参加者の方が良い方向へと歩まれている姿を、実際にこの目で見ていると、放生を伝承して行きたい、という深い思いにもなります。  

 

 来られる迄は、いろいろ質問もおありでしょう。 しかし最初は、必ず放生参加して頂きたいと思っています。 頭の中で色々考えるより、先ずは体験ありき、それが放生です。